クリント・イーストウッド週間 その2『許されざる者』(1992)

クリント・イーストウッド週間だよー。
こうやって言葉にしていくプロセスを挟むと、途端に
限界速度でも一日一本という形になる。
週末までに何本観られるかなァ。
しかし、こういう一つ一つが己の娯楽内功を練る
クンフーになるので、続けます。
読んでくださる方は、書く代わりに
このクソ長いブログを読むこと自体を
「簡易クンフー」と思うべし(笑)。
第二夜は『許されざる者』。アカデミー賞受賞作。

許されざる者 [DVD]
ワーナー・ホーム・ビデオ
2008-04-11

ユーザレビュー:
暴力の虚しさ悲しさこ ...
いい作品ではあったけ ...
誰が「許されざる者」 ...
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アカデミー賞、作品賞・助演男優賞・監督賞・編集賞を受賞!

かつての残忍な悪党が、娼婦の懸けた賞金を得ようと、昔の仲間や若いガンマンと共に最後の追跡の旅に出る。
これぞまさに「荒野の用心棒」から始まる彼の西部劇映画史の総決算!そこではイーストウッドが演じ、描き続けていた西部のアウトローが、年老いたガンマンという形で登場。銃の腕もおち、馬も巧みに乗りこなせなくなった彼が、生活のための金稼ぎから転じて、"伝説の男"として甦る姿が身震いするほどスタイリッシュに映し出される。仲間を殺され、復讐鬼と化した主人公の問答無用のガン・ファイト!

その"伝説の男"が去り行く馬上の姿を見届ける娼婦たち...。
今は亡き恩師セルジオ・レオーネとドン・シーゲルに捧げられたことでも話題となった、1992年度の映画界を代表する真の傑作である。

(内容紹介より)


…なんだか萌えアニメ観たくなってきたなぁ(笑)。
と、若干陰鬱な気分になっているルイさんですが
アウトロー』から続けて観ていると、色々繋がりも見える。
この間16年、たくさんの映画を手がけているわけで
2つだけに線を引くのは、暴力的だというのはわかった上で
時間的都合で「すいません、後で必ず観ますから…」と平謝りしつつ
話を進めますと。

『アウトロー』は、冒頭で南北戦争が終結し
映画のラストで、主人公達が「War is over」と口にする。
つまり、国家の戦争と個人の戦争の間にはギャップがあり
終わる時にも、ラグがある。
そのラグがそのもの上映時間、2時間超だ、という話0でした。
そういった印象も鮮明なまま、『許されざる者』を観ると
ここにも近い構図は存在するな、と気付く。

保安官リトル・ビル・ダゲッドが己が正義で治める
小さな町は、いわば国家の縮図。
自分の「息子」の小ささをバカにされてキレちゃったならず者
(とはいえ、普通の牧童)が娼婦の顔を切り刻んだとしても
リトル・ビルは、娼館の経営者と牧童の間で
馬を譲渡するという形の「手打ち」を執行する。
そこに、実際に切り刻まれた娼婦ディライラや
その仲間達の怒りは、全く介入する余地を持たない。
まさに『アウトロー』における南北戦争終結は
この作品における、牧童と経営者間にある手打ちであり
そこに取り残された、ジョージーの怒りは
本作でのアリスたち娼婦の怒り。

そういう意味で、「マクロ」が取りこぼす「ミクロ」、
あぶれてしまった弱者に対し
相変わらず行き届いた視線を見せる作品なのですが
かといって、そこに絶対の正義があるというわけでもない。

娼婦達は、自分たちの権利を守る為、私費を投じて
賞金稼ぎたちによる報復を行おうとする。
その事自体は、一種の労働改善要求みたいなもので
ナメられたら終わり、という意味で、わからない選択ではない。
とはいえ、一応の手打ちには応じた彼らには
「殺し」は過ぎた報復じゃないかい?
という印象を、視聴者は持ってしまう。

ここで、「牧童許せNEEEEEEEEEEE!!!!」という印象を
視聴者に与えたかったら、単純な話
「契約を反故にして、馬を持ってこない牧童たち」とか
「馬を持ってきたが、これでいいだろとばかりに調子こいてる」であるとか。
こう、牧童達に悪印象を与える手練手管はいくらでもあるわけですが
作品は、それを行っていない。当然意図的に。

それどころか、牧童のうち1人が、手打ちの馬を持ってきた時
契約内容とは無関係に、
上等の馬を持ってきて捧げようとするわけです。
それに対し、娼婦達は激怒してフン(泥?)を投げる。
「切り刻んでおいて馬か!」と。
それは、その通り。応報刑というわけでもないし
馬をあげればムチ打ちすらない、というリトル・ビルの選択に
当人たちが怒るのは当然です。
しかし同時に、牧童が
取り決めに従うだけでいいのに、馬をもう一頭持ってきたのも事実。
しかもその馬、確かに、明らかに毛並みがいい。
もしこれが、牧童の罪悪感に対する一種の言い訳であったとしても
やはり、+αを自分で持ってきたのは事実で
保安官に言った所では、5頭しか馬を持っていないような人間には
そのうち一頭が、大変な価値であった事は想像に難くない。

つまり牧童は牧童なりに反省しているし、誠意を見せていないわけでもないし
悪びれない態度を取ってもいない。
しかし同時に、それが相手に伝わらなければ意味がないというのも事実だし
その馬も経営主に与えられるだけなので、
当人への謝罪たりえていないといえばそれまででもある。

当然、最初に娼婦の顔を切り刻んだ連中が悪いに決まっているけれども
因果を辿れば、職業人なのに
男のイチモツをバカにしてしまった、という
いわば「接客マナー」にかける事をしてしまった娼婦にも、
全くの非がないわけではない。
誰かに絶対の正義や、絶対の非を与えないままに
物語は、その噂を聞きつけた賞金稼ぎ
=クリント・イーストウッド演じるビル・マニー、
その朋友モーガン・フリーマン演じるネッド・ローガン、
ジェームズ・ウールペット演じる口だけ新人
スコフィールド・キッドにシフトしていく。

女娼を痛めつけた、という噂ありきですから
一応の「御旗」は持っているものの、
とはいえ関係ない話に、金目当てでしゃしゃり出るのは事実。
噂では「目玉・乳房をくりぬいた」「性器以外全部」などと
えらい尾ひれもついている事から、ひょっとしたら
娼婦ディライラは死んでいる、とすら思っていたのではないでしょうか。
ところが、確かに彼女には酷い傷痕があるものの
別に死んではいないし、なくなってもいない。
途端に、賞金稼ぎたちにとっての「正義の殺し」が
急速に弱まっていきます。

牧童における馬手打ちがそうであったように、事実は事実として存在し
傷が噂ほど酷くなかったからといって、
切り刻んだ事実が消えたわけではない。
でも、猟奇殺人だと思っていたら顔に切り傷ってんじゃ
気持ちが萎えてもおかしくはない。
これによってか、旧友ネッドは
すっかりライフルで撃つ気持ちが萎えてしまう。
一方でマニーの方は、余剰に馬を差し出そうとした
若い牧童の方を、何発かのライフルでようやく仕留めるのですが
そこはおそらく「思ったほどの傷でなくとも、傷は傷」
という、ディライラへの感情移入も手伝っての事でしょう。
他の2人と違い、マニーだけはディライラと単独で話す機会があり
「噂ほど酷くなくても」その傷によって心そのものが痛んでしまっている
ディライラの哀れを、痛切に感じ取っていましたから。
…でも、やはりここにも絶対の正義と絶対の悪はなく
自分で腹を打ち抜いた牧童に対し
「もう撃たないから、水をあげてやれ!」と
マニーは牧童の仲間達に叫ぶわけです。

意欲を失ったテッドは、マニー達と別れ
地元に引き返そうとしますが、保安官に捕まり
拷問の末殺され、見せしめとして酒場前に飾られてしまう。
ここに、リトル・ビルが管理するこの街の
「過剰な正義」を感じずにはいられませんが
(彼が1人で雨漏りだらけの家を自作している事も
 こう、俺的正義を1人で突っ走る様がよく出ていると思います)
それに怒ったマニーは、今度は
「己の戦争」として、躊躇わずに殺戮を為す。
ここは牧童の時とはまるで違い、同情の余地一片もなし。
あまりに鮮やかな無敵っぷりが
序盤のヘロヘロ元ガンマン状態と、鮮やかな対比をもって
胸を突き抜ける爽快感になるわけですが…

でも、やっぱり一方的な爽快感を得られるわけでもない。
結局、マニーのやっている事も
過剰な復讐にしか見えないから。
最後、マニーは
「ネッドを埋葬しろ!娼婦たちをちゃんと扱え!
でないと皆殺しにくるぞ!」
と言い捨てて街を去るけれども、
それを見つめる娼婦たちの目は
別に感謝に輝いているわけでもない。
寧ろ、最初に牧童を始末した時に
「本当に殺したの!?」みたいな事を言い出したり
自分達の引いた引き金が、それにより発した銃弾が
どういう意味を持っていたのか、わかっていなかったようでもある。

作品的には、最後にマニーが
まるでなまはげのように(笑)
※僕は『コードギアス』でも『ガンダム00』でも
 こういう存在を「なまはげ」と呼ぶ癖があります
自分を脅しつける存在にして、憎悪の連鎖を一手に引き受け
そこだけ、妙にファンタジー臭かったりもするのですが。
実際は、憎しみの連鎖は簡単には途切れず
誰もが許されなさを抱えながら生きている。

タイトル『許されざる者』は
この映画を捧げた一人でもある、マカロニウェスタンの巨匠
セルジオ・レオーネの作品であり
同時に、イーストウッドの主演作でもある
『続・夕陽のガンマン』の英題が
『善玉、悪玉、卑劣漢』で、
善玉とされていたクリント・イーストウッド演じる主人公が
最終的には一番ワルなんじゃね、というオチをつけていたのと同様に
リトル・ビルを一応の「敵」にはしつつも
結局マニー、娼婦…あらゆるものたちが「許されなさ」を抱えている、という
絶対善の無さといったものを描いているのでした。

映画のクライマックスは、間違いなく
ネッドを殺されたと聴いた直後に、これまで
亡くした妻とであって以来、10年絶っていたという酒を
当然のようにゴクゴクと飲み干し、
そこからのイーストウッド無双コーナーなのですが
一方で、どこまで行ってもカタルシスには虚しさが付きまとうという
作品全体の空気が魅力的な作品でもあります。

作品ごとに、演じる役をガラッと変えるのも役者の魅力でしょうが
この作品の場合は、クリント・イーストウッドが
自分の演じてきた映画を、そのもの
「マニーが若い頃はっちゃけていて、色々悪い事やってきた」という
本編では言葉だけで、回想シーンすらない部分に
問答無用の説得力を与えていて、
この映画は「役者・イーストウッドの潜在情報」
で成立している作品なんだなあ、と感じました。
こうやって、ヒーロー・イーストウッドに落とし前をつけたからこそ
近年の映画は、そこに囚われていないのかもしれないですね。
若い頃のイーストウッド作品を数本は観てから観たい一本。
面白い…というか、味わいのある作品なのでした。
でも、若干テンションは落ちる件。←
イーストウッド映画はまとめて観るもんじゃないんじゃないか説(笑)。

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