クリント・イーストウッド週間 その5『グラン・トリノ』(2008)

クリント・イーストウッド週間だよー。
毎日重たいイーストウッド映画を鑑賞する日々も5日目。
途中、何本も観たい映画を飛ばしてきたのが悔やまれますが
続けてみていけば視点も生まれるもので
当初の予定通り、いやそれ以上に得られた感触に満足しています。
本日は『グラン・トリノ』2008年作品。
そうか、イーストウッド週間ってのは
『グラン・トリノ』をより愉しく観る為に、僕の本能が生み出したものだったんだなぁ。

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2009-09-16

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妻に先立たれ、一人暮らしの頑固な老人ウォルト。
人に心を許さず、無礼な若者たちを罵り、自宅の芝生に一歩でも侵入されれば、ライフルを突きつける。
そんな彼に、息子たちも寄り付こうとしない。学校にも行かず、仕事もなく、自分の進むべき道が分からない少年タオ。彼には手本となる父親がいない。
二人は隣同士だが、挨拶を交わすことすらなかった。

ある日、ウォルトが何より大切にしているヴィンテージ・カー<グラン・トリノ>を、タオが盗もうとするまでは ――。
ウォルトがタオの謝罪を受け入れたときから、二人の不思議な関係が始まる。
ウォルトから与えられる労働で、男としての自信を得るタオ。
タオを一人前にする目標に喜びを見出すウォルト。
しかし、タオは愚かな争いから、家族と共に命の危険にさらされる。

彼の未来を守るため、最後にウォルトがつけた決着とは――?

(内容紹介より)


老境に入ったからこそ見える境地があるのでしょうか。
こういう作品を観ると、
「歳を取るのも悪いものじゃない」と思えてきます。
イーストウッド映画がずっと持っている言及的な視点はそのままに
イーストウッド個人の集大成としても、
去り行く俺、継承してあげる俺カコイー的な自己満足作品としても成立し
それが独りよがりではなく、絆を紡ぐエンターテイメントとしても結実している。
物凄く高次でバランスの取れた作品。

観ていて、宮崎駿の『紅の豚』を思い出しましたが
あの映画以上に、己の美学と、趣味性を
己の作家性とまるで無理なく繋げてみせた
奇跡的な作品だと感じます。
もっと刺激的なイーストウッド映画は、他にありますけど
こんな美しい、まとまりを見せた作品を作るとは…
老人力が凄いなぁ。いや、結局歳がどうだというよりは
クリント・イーストウッドの人間力のなせる業なのでしょうね。
この作品を「到達点」と感じられただけでも
ここ数日、ムリして「イーストウッド漬けの日々」
を送ってきた甲斐はありました。

視点は大量に織り込まれています。
今週僕が観た映画からのリンクだけでもたくさんあるのだから、
彼の作品をもっとつぶさに追いかけていれば、こんなものではないはず。
それは、彼が自ら脚本を描いたわけではなくとも
そのホンを選定する作業からはじめている事から生まれる
「作家性」あればこそだと思います。

『ミスティックリバー』の印象的なラストシーン、パレードや
ジミーとショーンが真犯人について会話するシーンで
おそらく意識的に、カメラに収められている星条旗が
今回も、ウォルト宅の前に印象的に飾られている事。
登場頻度はかなり高い。
ウォルト宅のテラスが、自宅正面にあるのも
そこに座り酒を飲み、近所を見つめるウォルトと
後ろにたなびく星条旗を同時に納めたかったからでしょう。
彼のアメリカ言及は、もう細胞レベルにまで染み付いている。

『ミリオンダラー・ベイビー』が描いた内容同様に
ウォルトとタオの家族を超えた家族の絆は、歳の差を越え
『ミリオンダラー~』にあった「性の壁」の代わりに
今回は「人種の壁」も越えている。
そして、あの作品同様に
今回登場する家族達も、かなりどうしようもない。

ウォルトは、息子達とすらコミュニケーション不全だし
孫に至っては、もう人間としての教育を間違えたレベル。
この作品の「敵」であるタオの従兄たちも、ひたすらにダメ人間。
『ミリオンダラー』のディズニーシャツ集団の時も感じたこととして
こういう時の、イーストウッド作品の「ダメキャラ」は
基本は悪役にまで行き届いた視線を見せる癖に、途端に
割り切りが凄まじく強烈になって、辛辣なジョークに見えてしまうほど
典型的な「ダメキャラ」です。
皮肉がストレートに効きすぎてるのかな(笑)。

元々、「家族」という形態自体
他人同士である男と女が一緒になる、というプロセスを挟むわけで
血の神話というのは、それほど根拠のあるものではない。
人種も違い、歳も50以上離れた少年と絆を結び
遺言で彼の魂、愛車『グラン・トリノ』を譲り渡すのは
言うまでもなく、他人を家族と見ての「継承譚」です。

『ミリオンダラー』同様、この描き方をすると
どうしても、同じくらい心が繋がっているなら
当然優先されるであろう、家族の絆を軽視せざるを得ないので
「家族神話の崩壊」的なテーマをもって語られてしまうのですが
一方で、ED曲「グラン・トリノ」(トム・ウェイツみたいな曲!)は
クリント・イーストウッド自ら、息子とともに歌っている。
この辺のバランス感覚がこれまでになく、痺れる所でもあります。

作中で、タオの姉スーが
アジア人の頑固長老達の事を語った際
ウォルトが「俺だってそうだぞ」的な事を言います。
それに対し、スーが返したのが「あなたはアメリカ人だもの」

このシーンが、僕の思っている意図を持って存在しているかは
正直、あまり自信がありません。
ただ、個人的には物凄く納得のいくセリフでした。
それは、アメリカ人ならOK、という礼賛的な意味ではなく。
アジア圏と違い、ヨーロッパから土地を求め移住し
アフリカから奴隷をつれてきて…そうやって形成された文化は
本質的に「移民の国」だという事。

そうなると、土着レベルで結びついた概念が存在しない。
あると思っていても、そんなもの精々数百年のものです。
ないからこそ、そこへの反発というか、無いものねだりで
伝統的なものへの敬意なり価値が発生するのが
アメリカの面白さだ、と思っているのですが
とにかく、その国家・文化の生成過程自体が
民族や人種(血)を問わない、理念共同体的な側面を持っていたが故に
アメリカを形成するのは
「アメリカ人です!という血を持っている人達」ではない。
タオ達の一族が、ベトナム戦争で米国側に立ったため
報復を逃れてやってきた…という側面を持っている通り
「アメリカで、アメリカらしくあろうとすればそれがアメリカ」。

偏見に溢れた、ウォルト爺さんにすらそれは存在するから
スーは、彼の事を単なる頑固爺として見捨てないわけです。

※証拠として、イエローだアジアだジャップだブラックだと言いながら
 同時に、白人の頼りない少年の事もバカにしている点が挙げられます。
 単なる白人主義的なものというよりは「アメリカ人らしい高潔な魂」の要求が
 根底にあって、それありきで民族差別がついてきているだけだから
 そっちはあまり根深くないんですね。「魂」レベルで納得すれば
 すぐにタオやスー達への偏見を取り消してみせたように。

それがあれば、血の繋がりは二次的なものに過ぎない。
だから、この作品は「継承」(育成)に失敗した
現代家族の悲しい側面を描く一方で
あまりそこに寄った、しんみりした視点にもなっていない。
なぜなら、タオのような者に出会え、そこに継承をなしたのなら
まさに、「それこそがアメリカ」という風にも言えるから。
そういう意味で、ダメな面を描写しつつも見捨てない、
いやこれこそがアメリカだ、と言い切る
イーストウッド作品の力強さが、本作にもよく出ている。
ここは「ミリオンダラー」と同様ながら、
グラン・トリノの引継ぎを描く事で、よっぽど上手く描けていますね。
最終的にあっちは「個々の満足」に収束したから
個別論的な側面が強くなってしまったけれど
今回の描き方なら、グラン・トリノもまた
タオから誰かに引き継がれていくでしょう。


同時に、ウォルトの最後を描く事で
「個々の満足」の物語としても描けています。
ラストシーンは『アウトロー』や『許されざる者たち』の時代
=西部劇の時代なら可能だった、
「とりあえず殺し」が許されない現代にあって
復讐するという事はどういう事か?というテーマも持っている。

以前は感情のままに殺してみた所で
その連鎖は止まらず、虚しい限り…という描き方でした。
『ミスティックリバー』だと、無理をして現代でも「それ」を為すものの
その結果がいかに残酷で切ないものに繋がるかは、明白。
『ミリオンダラーベイビー』で、はじめて
リベンジ的なものにあまり視点がいっていない作品を観たのですが
(相手への、社会的制裁なんて所には全く触れなかったですよね)
それは、あの作品が2人の絆、個人の満足に
極端に寄っていて、イーストウッド作品としては視点が狭かったから。
※正確には、狭いというより「一面を描いたから」。
『グラン・トリノ』のリベンジには、西部開拓時代ではない
今なせる復讐の形を観るような思いでした。
あそこで銃を撃たないなら、タオの従兄たちの集団にも
それなりに見所はあるという事でしょうし
そこで撃っちゃうのだからそれまでの連中だ、という事でもある。
同時に、銃社会だからこそ生まれる
「先手必勝」というか「脅威への先制攻撃」への皮肉も存在していて
…もう、視点が多すぎるな!

これほど多視点を持った作品を、基本
老人のロマンチシズムの作品として表現してみせた、
その事自体に感動してしまいます。
それは同時に、ロウリンロウリンロウリン♪…と
「ローハイド」時代から演じ続け
『許されざる者たち』でヒーローとしての落とし前をつけた
俳優、クリント・イーストウッドが
今度は「役者人生」の落とし前をつけたような側面も持っていて。
ここまで研ぎ澄まされた視点を、普遍の物語に変換し
しかも同時に「個人の歴史の総括」にも使ってみせたという
鮮やかすぎる融合には、拍手を禁じえないものがありました。
モニター前で拍手してどうするって話でもありますが(笑)。

何しろ、素晴らしい作品です。
イーストウッド作品を観続けてきた人への「ギフト」のような作品。
この一週間で、最低限その事を感じられる所まで来られただけで
おおいに満足しています。
超オススメだけど、若い頃の数作~許されざる者
っていうステップは挟んだ方が良いでしょう。

本当に、恐ろしいお爺さんです。

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