『アオソラ』僕の、あなたのヒデを見つめて

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月刊少年マガジンに掲載された
『金色のガッシュ!』作者、雷句誠先生の読み切り『アオソラ』。
彼にとっての、半ば自叙伝じみた作品であり
一部の読者にとっては
心の中に風を起こす、忘れられぬ作品になるであろう一作です。

非常にシンプルな、欲張った所のない作品ながら。
いや、そんな単純なつくりだからこそ
この作品には、読者1人1人が想いを注ぐに値する「隙間」がある。
雷句先生が、今の雷句誠としてではなく
かつての雷句誠としての視点を徹底したからこその隙間。

言うが易しの典型です。

どうやったって、今この漫画を描いている雷句誠は既に大人で
その頃の心の動きを、今の自分というもので見つめているのに
なるべくその視点を排そうとしているし、実際できている。
作中の主人公ソラが感じたものがそのまま漫画の中で表現され
そこに対する何者の介入も感じない「ただここにある世界」。
でも、だからこそ
読者はその世界に、なんの壁もなく
すんなりと自分を投影できるのでしょう。
見事な「ありふれた日常」の描き方だと思います。

主人公は少年、アオ。
友達の死、世間に溢れる暗いニュース。
諦観、虚無。
ふける享楽。
でも、親友・ヒデは昔も今も、同じ目で前を見ていた。


この作品から何を得るのか?
単純・シンプルゆえに万人が同じ感覚を…とも思いますが
一方で、それぞれ
受け取り方が少しづつ異なるだろう、とも思います。
例えば話の筋だけを見れば、ここにあるのは
現在大成功を収めている漫画家、雷句誠が
その今へと踏み出すに至った「夢への一歩目」の物語。
これもまた、1つの側面ではあるのでしょう。
でも、僕はあまりそこを大きく捉えて読んでいない。
それだと「まんが道」の変化球・個人体験に過ぎないといいますか。

この作品にあるのは、もっともっとシンプルな
生き方の、芯の物語。
そう受け止めました。
このあたりに関して、最初に書いた
「視点の排除」が素晴らしく効いています。
こういう事がありました、という描き方はしていても
それ以上の、テーマ誘導としての視点、
そしてそれを補強する言葉が強くないからこそ
作品の読み方、受け取り方は
その作品の単純さとは裏腹に、かなり広範に対応している。

僕らは皆、死に向かって生きている。
今日を繰り返した先に老いがあり、その先に死がある。
いや、それすら幸福な未来予想に過ぎず
ある日突然の事故・病気による人生の断絶だってある。
僕らの世界は緩やかに、そして同時に
数万年スパンからみれば物凄くスピーディに、滅びに向かっている。

今死んでも、50年後死んでも死は死だ。
その先に何かがあるわけじゃない。
…少なくとも、科学の発展した現代。
そこに生きる僕らの多くは
この感覚を、前提として抱いていますよね。
夜の闇や空に瞬く星にすら人智及ばず、
そこに妖なり天上人の世界なりをイメージした
そんな時代の人とは、根本的な考え方が異なるのでしょう。
「わかるもの」が多すぎるから、数少ない
「わからない」ものを排除してしまえる。
勿論皆が皆、徹底的に
「わからないもの」を排除しているとは思いませんが
一方で、例えば「死後の世界」と言った所で
それを心から、100%、塵ほどの例外もなく
完璧に受け容れられる人は、どれだけいるのでしょう。
少なくとも僕は、そんな風には思えない。
霊はいる「かもしれない」。
死後の世界、輪廻転生、ある「かもしれない」。
でもそれは単に、自分や科学が知らない・対応できない
=無いと言い切るのは短慮だ、と頭で考えているだけで
それを前提に人生を組めるわけではない。
だから、最初に書いた「今死んでも50年後死んでも」は
それなりに、そう思ってもいますし
作品の主人公・ソラもそこで立ち止まってしまう。
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楽しい!
1度の人生を楽しく生きている
これが勝ちなんだ!!


ここで、いかにも悪者担当の(笑)
ステレオタイプな不良先輩が登場し
未成年喫煙やゲームコピー商売などで、
刹那的な快楽を提示する。
勿論この先輩は、ヒデと対比する為にうまれた「敵」として
作中もっともファンタジー臭のするキャラクターです。
ただ、ここで敢えて言っておきたいのは
1度の人生を楽しく生きるのは、勝ちだと思うということ。
雷句先生は、このセリフを「誤答」として提示したのでしょうか?
それもまた1つの「読み」ではあると思います。
特に最初に触れた、作品の受け止め方が
「夢への物語」だった場合、この発言はもっとも単純な
夢に向かって歩むことに対する、間違った精神という事になる。
そこは正直、雷句先生がどう考えているかはわかりませんし
(作品自体が、神の視点を極力感じさせていないから)
同時に雷句先生がどう考えていようが、それが絶対の答えではないので
気にせず進めますが…
1度の人生を楽しく生きるのは、勝ちだと思うのです。繰り返す。

けれど、自分の人生というものは
産声を挙げたその瞬間から繋がっていて。
どこにもワープもショートカットもない、地続きのこの人生があるのに。
果たしてそれを「楽しい」と思っている自分は
本当に「楽しい」のだろうか?
本当にそれが、そう感じる自分が自分なのだろうか?
自分に偽って得る楽しさなんて、続かないよね?
だって、確定で最初から最後まで付き合うのが「自分」なのだから。

僕は、そういう風に受け取っています。
真に1度の人生を愉しむというのは、どういう事なのか?
今この作品では、夢に向かい、それを実現してみせた
眩しい「雷句誠」という存在が前提にあるために、どうしても
一般的な「夢を持つっていいことさ!」というテーマに
収束されてしまうような気がするのですが…
(勿論それも、大切なテーマだとは思う)
アオソラで描かれているのは、もっともっと内的で漠然とした

自分のかっこいいと思う自分を目指す、というもの。

その1つの形に「夢」があるというだけで、
夢の物語ではないでしょう。それでは単純に過ぎる。
そして人が「かっこいいもの」を目指す時
そこには、誰か…いや誰に限らず「何か」があって
作品ではそれを、親友・ヒデに受け持ってもらっているわけです。
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※血管が浮き出ているのが凄く良いですね。

作中で、ヒデはちりじり髪でタラコ唇。
決して二枚目としては描かれていません。
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人間がカッコ良かった

これ以上に適切な形容なんて、多分僕程度では
いや、どんなに賢い人間だって見つけられないと思いますが
人間のカッコよさに、顔も背の高さも関係ない。
じゃあ何か一芸が、というとそんな話でもない。
ソラ、ヒデ、女友達の浅倉裕子。皆が絵を描く中で
ヒデはおそらく、最も才能の無いものとして描かれています。
けれど魂のカッコ良さは、そこに因らない。
だからこそ、夢の物語として捉えたくないわけで…

と。
ここでまた、冷や水を浴びせかけるような事を言いますが
ヒデは、誰にとってもヒデであるとは限らないと思います。
作品内のヒデは、とにかくかっこよくて、
かっこよくて、
かっこよくて。
ともすれば万人にとってのヒデ…つまり
人生の規範とすべき、かっこいい男にしか見えないのですが
おそらく作品のテーマ、というか配置を突き詰めて考えていくと
ヒデは、そうである必要はないのです。
実際、「才能」「評価」というファクターではヒデが遅れをとっているように
どこかに、ヒデがかっこよく見えない角度、というのもあるのでしょう。
ヒデが本当の聖人であるわけではないのだから
(それは、ヒデという人格を世界から切り離す行為です)
ヒデにはヒデで、かっこよくない所、大した事ないところは必ずある。

作中でそれを窺い知れる部分は少ないけれど
例えば、家庭の問題を自分ではどうにもできず
ただ我慢するだけだったところや。
夜中に遊びに来たヒデに対し、オープンにTVを与えたりするのも
本当に優れた行いかと言うと、疑問も残る。
(まあ、後者の方はアオに自分で感じさせる狙いがあったかも?)

けれど、アオがカッコいいと思ったヒデは確かに存在していて
それが、ある角度からのものに過ぎないとしても
そのカッコよさは、自分の居住まいをも正してくれる。
あこがれはあこがれ。かっこいいものはかっこいい。
それが全てあり、そういう事だと思います。
この辺はアニメ『天元突破グレンラガン』の
シモンとカミナの話をイメージしてもらえると、わかりやすいでしょうか。
カミナは大したことない所もあっても、
シモンにとっては憧れであり、カッコよかった。
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そ、そういえば劇場版観てないなぁ…(笑)。

だから、僕らがそれぞれの胸に抱える「ヒデ」は、きっとまるで違うのです。
それが歴史的な偉人であったり、社会的な評価を受ける人である必要はない。
(同時に、その可能性を否定する事もない)
ほかの人は誰も知らないような人かもしれない。
いや、もっと言えば、ヒデは現実に生きる人ではないかもしれない。
小説・映画・アニメ・漫画。そういった物語にある、キャラクターかもしれない。
中には直接的なヒデではなく、ヒデとはかけ離れた酷い人が身近にいて
そうはなりたくない、という反面教師じみた「反ヒデ」しかいないかもしれない。
いやいや、もっと言えば、ヒデは人の形すらしていないかもしれない。
ある詩や歌詞の一節、一枚の絵画、1つの工芸品…
何にヒデを見出すかは、おそらく人の数だけ答えがあって
その誰かのヒデが、そうでない人から見れば
「何でそれがヒデなの?もっと良いものあるよ?」であったとしても
やはりそのヒデは、揺らぐことなくヒデである。
…というより、そこで揺らがない時
はじめて、その人にとってヒデがヒデである、と言えるのでしょう。

この漫画を読んで、僕やあなたのヒデに想いを馳せる。
そんな読み方も良いと思います。
時の中にぽっかりと浮かんだ「今」という名の孤島。
そこに言いようのない虚しさを覚えた事のある人は、是非読んで欲しい。
(ちなみに、この感覚はある種の「普遍」だとは思いますが
特に深く考えず、或いはサラッと答えを出して進む人も沢山いると思います。
考えようが考えまいが、人生長くても100年で終わります。
サラッと駆け抜ける人は、駆け抜けてしまえるのでしょう)

あなたのヒデは、誰(何)でしょうか。

あ。
もちろん賢明な人は気付いていると思いますが
当ブログの姿勢としては
「声優・高垣彩陽さんは僕のヒデである」という事ですね。
(笑)でしゃれっぽく書こうとも思ったけれど
結構マジなのでやめておこう。


余談。
作品の最後に、「続きが読みたければお便りを!」
といった事が書いてあるのですが…
続き、読みたいですか?
僕はあまり、読みたいとは思わない。
この先の続きなんてそれこそ
「一生かけて追い求めるカッコよさ」の話であって
ここに半端に「次の5年・10年」を描き足したところで
それは、現実問題分岐していくキャラの人生の中
社会的成功とカッコよさが決してリンクするわけじゃないとか…
そういった姿勢を描かざるを得なくなってしまう。
そうなると、今回のフラットな作風よりも、
テーマが寄らざるを得なくなると思いますよ?
敢えてそれを読みたいとは、僕は思いません。
(人気からして、また雷句先生の意欲からして
可能性は結構あると思いますが)
ここはただ『アオソラ』に感謝を、ってとこですかね。

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