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zoom RSS 貫かれる「2」…『TARI TARI』5話・6話で満ち足りた理由と『TARI TARI』論

<<   作成日時 : 2012/08/12 09:05   >>

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現在6話まで放送中のテレビアニメ『TARI TARI』が、
抜群の面白さと完成度を見せています。
特に5話『捨てたり 捨てられなかったり』6話『笑ったり 想ったり』。
作品の格を高める、とても素晴らしい2話でした。
純粋にいちエピソードとして素晴らしかっただけでなく、
物語がタイトルから一貫して持っていた方向性、ポテンシャルを、
そのベクトルの先で、より深化させ拡大してみせた…
そんな、作品性自体を決定付けるエピソード。
今回は、その素晴らしさについて考えると同時に
物語全体を捉え直してみようと思います。

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基本2話完結を志向する『TARI TARI』の中にあっても、
5話と6話は飛び抜けて完成度の高い、前後編として美しいエピソードでした。
美しさの理由は、5話と6話の関係性。
天気が象徴的ながら、全体的に

5話を陰(闇)とするなら6話は陽(光)、
5話を裏とするなら6話は表、
5話をbeforeとするなら6話はafter…

5話6話は、そんな前後編に相応しい関係性で構成されています。
裏返しの関係性なので、基本の「型」は共通しています。
この場合の「型」は、言葉や出来事から過去へと繋げる、
時系列よりも心情を重んじた回想の切り口。
橋本昌和監督が脚本も書かれた事による、
文字先行ではない「映像的な脚本」が生んだ描きなのでしょう。
独白やSE、音声加工や映像演出で現在に切り替える事もなく、
零したコーヒーや雨に打たれた傘からの、
視覚や聴覚をもって行う自然な繋ぎには鳥肌が立ちました。

思い出される事はともに、和奏とまひるの過去。
ただし、和奏に与える影響はまるで正反対です。
5話で和奏が思い出す過去は悉く彼女を苛み。
6話で和奏が思い出す過去は悉く彼女を包み込む。
その差が6話前半の「和奏の変化」前後の差として描かれています。
※以降、画像の左が5話、右が6話

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和奏「もういい!受験に受からなかったら意味ないでしょ!」(5話)

まひる「遠くに和奏の大好きな人がいて、
 その人に私は元気だよーって楽しい気持ちを届けるつもりで」(6話)


5話時点では、受験や反抗期諸々が重なり
高校受験期の和奏は、いつも母・まひるに反発していたように感じられます。
実際5話の描写的には、そうとしか取りようがない。
ところが6話を経ると、それだけが全てではなく、
そんな日々の中にも心温まるやり取りはあったという描きが加わります。
正確には、和奏自身がその事を思い出し、再認識している。
5話の後悔に苛まれる和奏の心が、
また6話の次の段階へ進みつつある和奏の心が、
その時々の心に沿った過去を引き出していたという事でしょう。

過去の出来事は、喜びや哀しみ、1つに占められたものではなく。
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また同種の過去から受け取る感情すらも、1つではない。

受験期のような屈託もない幼少期。
中学時代とは異なり、5話と6話の回想に差はありません。
いつも和奏は笑っていて、そこにあったのは幸せな日々。
では差を設けたのは何か?それはやはり、今の心。
5話の和奏には、幼少期の幸福な記憶すら罪を詰る告発者。
だからこそ、人形をピアノと共に捨ててしまおうと考えたわけですが、
6話の和奏は幼少期を思い出し、そして今度は微笑む事になる。
幼少期と中学時代どちらからも、5話の和奏は辛さや哀しさを。
一方6話の和奏は、切なさだけでない優しさや喜びを感じ取っていたのでしょう。
今は、過去の意味や価値を変えてゆく。
既にあった「出来事」すら、ただ1つを意味はしません。

前後編らしい作りは回想に限らず、様々な部分に出ています。

・ドラの失踪と帰宅
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死を匂わせつつ5話で消え、6話で帰還したお騒がせ愛猫・ドラ。
冒頭に早速帰ってきたドラを観て、安心した人も多かったのでは。
僕自身は、ドラは生きていると思っていましたし、
「帰宅と同時に子連れ」くらいまで想像に入れていました。
その事で言わんとし、作品に求めた「死と生の両面性」は
高橋先生が受け持ってくれましたが…いずれにせよ、ドラは生きていた。

まひる同様にドラ、他にも人形やピアノ…
これら全て取り返しをつかなくし、奪う描きでは、
物語世界が「厳しさ」に満たされてしまいます。
そうではなく『TARI TARI』が描くのは、
厳しさと優しさが共にあり、それが織りなす世界。
だからこそ、ドラは生きるべくして生きていました。

回想同様に「今の心」が生み出した、ドラへの不安。
母との過去にネガティブな思いを巡らせてばかりいたから、
周りからも勝手にネガティブな想像をしてしまう…
和奏の、全てをまひるとの断絶レベルに沿わせていこうとする…
世界をそれ一色で見ようとする「決めつけ」に対し
6話開始後数分で「そんなに思いつめなくても」とばかりに現れたドラは、
止んだ雨と、彼女を1人にすまいと帰ってきた父・圭介と並び、
物語のシフト宣言者。
嵐は去り、悲劇の予感も消え、一人でもない。さあ、と。
その結実、具体的な始まりが、来夏の見舞いだったのでしょう。

回想にいないドラは、まひると入れ替わるようなタイミングで
坂井家にやってきたのでしょうか。
そのドラに対し、和奏は勉強を邪魔され、腹の上を横断され…
気ままな事をされているのに、嫌いになるわけもなく心配している。
和奏は、既にドラに対する自らの感情を通して、
まひるの和奏に対する感情を、自然と掴み始めていたのかもしれません。
和奏だって、ドラに「優しくして欲しかった」わけではないのでしょう。

・和奏は誘いを断れる?断れない?
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和奏は基本「押しに弱い」人物として描写されてきました。
頼まれごとは基本的に引き受けるし、
断るつもりでも場の雰囲気で言い出せない、そんな少女として。

物語開始時は「断る女」だったのでは?
そんな指摘もあるでしょう。実際、1話ではその通り「でした」。
しかし、1話を観た時はそう見えたものが、2話以降を観ていくと
「歌に関わった時が、和奏の例外だった」事が見えてきます。
最初に視聴者に印象づけられる「はじまりの描写」が、寧ろ例外。
「このキャラはこう」という視聴者が落ち着く為の「決め付け」、
表現的には「記号化」を簡単には済ませまいと揺らしてくる作劇は、
前述の5.6話回想と同様の作劇手法であり、『TARI TARI』の肝です。

その「常態は断れない女」である筈の和奏が、
5話では久々にそしてひたすらに「断る女」として描かれます。
今度は、歌も関係なし。全拒否状態。
冒頭のマラカス応援を拒否、紗羽の母、志保による風呂の誘いもお断り。
ウィーン、紗羽、来夏に大智の打ち上げに誘われても帰宅。
特に、これまで彼女を釣り上げるに鉄板であった
来夏の「ケーキ」の拒否は「異常さ」が際立ちました。

では、6話の和奏はどうでしょう?6話の彼女は再び「断れない」。
紗羽の乗馬は自然な成り行きの範疇だとしても、
出産後である高橋先生の「赤ちゃん見に来ない?」、
更にジェラートお使いに関しては、まさに和奏!の断れなさ。
弱気になった?そうではなく、ここで、彼女は彼女なりに
「断れないという彼女の日常」を再獲得しています。
断れないというある面から見た「弱さ」に回帰する事が、
異常からの回復を意味するというのも捻くれた描きですが…
それが坂井和奏の「常」、なのでしょう。
強く断れる事のみが正道にして成長、
という一面的な描きをする作品でもありませんしね。

※同時に、来夏からケーキを受け取り、、
また高橋先生宅でジェラートを口にする事で、
来夏によって作り上げられた「ケーキ大好き少女、坂井和奏」
…実際は、来夏がケーキを持ちだして交渉した事で生まれたのですし、
和奏自身がケーキに目がないというよりは、
来夏が単純な「女の子=ケーキで釣れる」のケーキ脳なだけかもしれませんが(笑)…
という、「他者から見た坂井和奏の常態」も取り戻している事に注目。

「断れなさ」への一周した回帰、再獲得の果てに、
例外扱いだった「歌」も断ったり無碍にする事はなくなり、
大智とウィーンの前で発声をしてみせる、和奏が生まれると。
その彼女はいわば「真・断れない女」いや「断らない女」です

…褒めてないし、和奏が心配になるなあ(笑)。

・坂井家の食卓
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和奏「お父さん…部屋のピアノ、片付けようと思うんだけど。
私、もう使わないし。誰か、本当に音楽を好きな人に使ってもらった方が
お母さんも喜ぶと思うから」(5話)

和奏「お母さん、なんで私に病気の事話してくれなかったのかな…
そしたら、約束だって守れたかもしれないし、もっと優しくできたのに」(6話)


5話と6話でともに描かれる夕食シーンは、前後編の象徴です。
どちらも「和奏が軽口を叩いた後、間を置いて父に本題を切り出す」
型は共通、和奏の口にする内容が正反対…と、前述の回想描写と同じく、
型は違えど中身が真逆、という前後編の作法です。

目を空に泳がせた5話と、俯いた6話。
物語展開的には、喪失に向かう5話と、再獲得に向かう6話。
一番のポイントは、共に「お母さん」という言葉が使われており、
しかしまったく別の使われ方であるという点です。

5話の「お母さん」は、
和奏が逃避の為作りだした、都合の良いまひる。
世界に1人閉じこもっている者の、自己完結的な発言で、
そこに本当のまひるに対する想像はない。
対して6話の「お母さん」では、和奏は父に対し母への疑問を口にしている。
自分と違う、他者である母に対する、自責や自己完結に留まらぬ疑問。
この発言の前に結婚記念日に触れ、プロポーズについて質問したように
他者としての母(父)に向きあおうとする姿勢が出ています。
この食卓では、2年以上母の話題はなかったのでしょう。
その変化が意味しているのは、彼女が扉を開け、
開かれた世界に入ったという事。きっかけは仲間達。
5話と同じようで、全く正反対の描きです。

男親の、一人娘に対する接し方としての選択としてか。
圭介は、和奏が自ら立ち直るきっかけを得るまで
自分から働きかけはしませんでした。
ただ「1人にしない」。側に在り続け、見守り続ける。
ここで和奏が立ち直る姿勢を、母に向き合う姿勢をみせたからこそ。
また父として、その変化を見逃さずに感じ取ったからこそ。
5話では和奏に表面上従い、特に何も言わなかった彼は
6話でまひるの真意を語り、楽譜を渡します。
5話でも「母さんはそんな事で喜ばないよ」「ピアノは捨てない」と言えるのに、
そこで言わなかった事、そして6話で言った事の差を汲み取りたいものです。

・和奏の挨拶
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和奏「言えなかった…いってきますも、ごめんなさいも…ありがとうも。
もう一緒に歌えない…ごめんなさい、お母さん」(5話)

和奏「お母さん、ありがとう…」(6話)


5話と6話、最大の対比であり変化「ごめんなさい」から「ありがとう」へ。
「ごめんなさい」も等しく挨拶、かける言葉ではあって。
5話の哀しい展開も、ピアノや人形をはじめとした過ちも、
「ありがとう」に至る為必要だったのでしょう。
きっと、高校入学以来初めて母にかけた言葉が
この時の「ごめんなさい」だったでしょうから。

まひるが亡くなってから物語開始まで、約2年。
明確な理由があるのか、漠然と摩耗した精神が限界に達したのか?
現時点では不明ながら、音楽科に2年ほど彼女は留まり、そしてある時限界を迎えた。
もしそのままなら、和奏はピアノを捨てようとしたでしょうか?
なんとなく目を逸らし、埃を被らせていただけかもしれません。
5話の和奏の動きは、4話の最後に貰った手紙を読み、
そこで母の願いを知った事によって再び沸き起こった強烈な後悔、
また強烈な過去の想起から始まっています。

コンドルクインズからまひるの手紙を貰わなければ、
和奏は5話のようにまでは落ち込まなかったでしょう。
自然と仲間とは打ち解けていったかもしれない。
けれど、その道では和奏はせいぜい数合わせ。
歌う日は、少なくとも高校生活中は来なかったかもしれません。
辛い事であったとしても、そこに行き過ぎた間違いがあったとしても、
まず向き合い、喪って気付き、後悔して謝る。
捨てようとするほどに苦しくなるまで、本気で向き合う。
その一度底を見るステップが、坂井和奏という不器用な少女には必要でした。

それが酸いも甘いも知る、人生の先輩である老人達によってもたらされた…
というのも、なかなかに味わいのある描きです。
4話、来夏にステージを返す事なく
「戻りなさいアミーゴ、君のステージに」と告げた彼ら。
形は違えど、和奏に対しても
「自らのステージに向き合え」という忠告が感じられます。
でなければ、最初に会った時に手紙は渡したでしょう。

ちなみに、和奏を支配する「後悔」が、今回ほど向きあう前から
淡く形となって現れていたのが、1話冒頭の「いってきます」。
最初に観た時は「口論しながらも挨拶は欠かさぬ良い親子」
程度の印象だったものが、5話を経るとそれすらも
「いってきますを言えなかった過去」が根となっている事に気付きます。
他にも5話、誰も居ない家に向かってかけた「ただいま」であるとか、
実は結構な回数、きっちりと描かれている「和奏の挨拶」は、
まひるへの後悔あってと読むと、人物造形の深度が変わってきます。
ひょっとしたら「断れなさ」すらも、
まひるの誘いをあしらっていた時代の反動、
その態度がもたらした悲劇に対する、臆病さの表れなのかもしれません。

本当に素晴らしい前後編です。
展開それ自体というより、描き方の精度が高すぎる。
全体における、なんて視点を入れずとも、
単純に、極めて優れたエピソード。
けれども、6話の白眉とも言える、まひると圭介の回想シーン…
そこでの台詞には、更にハッとさせられました。

※秋の公園を歩くシーンは、P.A.WORKSの「誠実な制作」が
そのまま表現としての力になった、素晴らしいシーン。
坂井夫婦とすれ違い、また公園に集う人たちの生き生きとした様。
カップル、家族連れ、孫と老夫婦、妊婦、仲良さげなOL2人…
様々な年齢や家族構成が、舞い散る葉と相まって
移り変わる人生の、時の流れを強調し、その流れの中における
「それぞれの今いるステージの差」を残酷に、しかし美しく描写。
坂井夫婦の過去や、今や、未来の可能性でもあったでしょう。

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まひる「私、絶対にあの子を1人にしない」

まひるの宣言は、純粋に物語上の母の宣言であると同時に、
作品全てを貫く宣言にも聞こえるものでした。
というのも、それほどこの台詞は、
僕のぼんやりとした『TARI TARI』観に沿い、更に補強してくれるものでした。
だからこそ、5.6話は前後編としての素晴らしさに留まらず、
自分にとって大切な回です。
最初に思い出したのは、1話観賞時に書いた記事。
『TARI TARI』〜物語世界に響き渡る、「1」に限らぬ「たり」の歌〜
青春の描き方は様々ながら、主にスポーツものなどを中心に支配するのは
やはり「一途」の肯定という描き。
1つの道を貫く事が強さとなる、より深く、遠くに行ける…
それは実際に、事実である事が多い故に圧倒的な正しさを含みますが、
正しさを含むからこそ、ともすれば絶対正義となり、他の正しさを排除してしまう事があります。
『TARI TARI』で描かれているのは、その一途、1つの道…
「1」の物語からはじかれた側の、それもまた肯定してみせる優しい物語。
回り道したからこそ、やり直しだからこそ得られる何かがある。
1人で突き進むストイックさはなくとも、仲間がくれるものがある。

※タイトル『TARI TARI』だって、2つ並べているわけですしね。


この視点は、突き詰める価値があると思っています。
ただし、まだ足りなかった。『TARI TARI』の「1から2」への描きは、
当時想定していたよりずっと高い精度、広い射程範囲です。
それは「はじかれた側を肯定する優しい物語」という
慰撫に留まらない「淡いまま強い」描き。
「1」を貫く物語の、徹底が生み出す深度や強度に対し、
「2」が持つ強さや広さ、全てを束ねて対抗するとでも言うような…
「1の物語」のフォローでは効かない、
「2の物語」それ自体の到達点と呼べるような力強さを感じます。

まひるの宣言で改めて気付かされたのは、
この作品が志向する「1に限らない描き」「2の描き」自体すら
ある種「2つ」の意味があるという点。英語にすると明確でしょうか。

first second…序数詞としての2の物語と、
one two…基数詞としての2の物語。

記事を書いた時、僕は主に序数詞、「回り道、やり直し」を中心とした
セカンドチャンスを肯定する物語として『TARI TARI』を観ていました。
一途、一意…1つの道を1つの才、或いは1つの意志(価値観)や覚悟で突き詰める
「1の物語」に対する、それ以外の価値を描く物語。
実際、4話での和奏と来夏による
「私天才だったらなぁ…」「私も天才じゃないから」
という会話は「1の物語」から外れた宣言になっています。

もう一方、まひるによって再認識させられたのは基数詞、
世界を閉ざさない、豊かに広げる為の「絆の力」としての2です。
2を「2人だけの世界」という閉じた扱いをする物語も存在しますが(共依存)
ここで描かれている「2」は、それ以上の全ての数に届きうる、複数を象徴する「2」。
何故なら、特定の2にすがる事からも、この作品は逃れているから…それは後述します。

つまり回り道ややり直しを肯定する、という意味でも、
また1人より2人、という仲間の、人と人の豊かさや化学反応という意味でも。
『TARI TARI』は2つの意味の「2」を基調とし、数多ある「2」に手を伸ばしている。
だからこそタイトルが『TARI TARI』であり、また基本2話構成なのでしょう。
2の尊さを語る作品として、その主張の純度を高める為の「2の徹底」。

言い切る事は、多くの場合において強さに、力になります。
ところが『TARI TARI』においては、ただの言い切りは作品との齟齬を生む。
言葉遊びをするならば「言い切らない事を、言い切らないと」いけません。
例えば、当時僕が『TARI TARI』に観ていた「優しい物語」という言い切り。
ところがその「優しい物語」すらも、厳しさのまったくないそれは
「優しさの徹底」つまり「1」の世界ですよね。
不幸や競争のない世界…そんな楽園世界は所謂日常系に沢山ありますし、
それらの極北に『DOG DAYS』のような作品も存在します。
『DOG DAYS』の「ご近所異世界感」「戦争オリエンテーション感覚」
をはじめとした牙の抜き具合、その歪なまでの安心安全の徹底には
ある種の美を感じ、敬意を抱いています。醜悪だとしても、徹底は美しい。
けれど『TARI TARI』が目指すのは、1に限らない強さです。

だから『TARI TARI』は作品を全うする為に、
厳しさも優しさも、両側を描くのでしょう。
その、優しさに限らぬ際を描いてみせたからこそ、
5.6話は作品を押し上げ得たのでしょう。

まひるが死ぬ、綺麗に別れる事もできなかった、厳しく是非もない世界。
取り返しのつかない、死による断絶。永遠に届かない百点満点。
それを正面から描き、描いた上でなお
ドラをはじめとした取り戻せる・やり直せるもの達を描き、
テープを通し、時を超えた過去と今の合唱を成立させるのなら、
そしてその深みのある世界が、
厳しさを経てなお優しさを、美しさを見せるのなら…
それこそが『TARI TARI』が「2」を徹底する価値ではないでしょうか。
5話6話はその点でも象徴的です。
闇と光がともにあるからこそ、それが生み出す影もまた美しいという描き。
5,6話は作品にとっても象徴なのです。

この作品が選んだ道は「2」の、「たり」の道。
何かに特化した方が長く、深く、鋭い。
わかりやすいし、描きやすい。それは物語として当然の事です。
「キャラクターの記号性」など、様々な部分で
どんな物語も、大なり小なりその「1の強さ」に頼っています。
けれど『TARI TARI』は、そんな「1の強さ」が溢れる中にあって
「2」を、一方に寄らない淡さをひたすらに積み重ねる事で、
別アプローチの「強さ」を目指しているのではないでしょうか。

例えるなら、鎧に対する鎖帷子。編み物で言うつづれおり。
縦と横、「2」を縫い合わせながら、
それをひたすら繰り返し、豊かさを、強度を獲得していくやり方です。
『TARI TARI』はその手数がとにかく多く、精度がとにかく高い。
ですから『TARI TARI』を観る時は
「2」を意識して観るだけで、面白さが格段に増すと思っています。

前半の5.6話語りでも、意識的に1に限らない部分、2には触れておきました。
それ以外でも、ここで思い付く作中の「2」を、いくつか紹介してみましょう。
先程書いた「second(序数詞)」「two(基数詞)」のうち
secondは、物語設定や大部分で見ればすぐわかると思います。
音楽科から普通科に転科した和奏、声楽部から合唱部に移った来夏。
和奏の勧誘自体2度目で成功しているし、
来夏の2話発表会も、彼女にとって2度目の挑戦。
来夏のステージも1度目はコンドルクインズに譲っている上、
それを力や意欲で奪い返せ、というマッチョな話にもならず、
他の空きステージを見つけています。
和奏も大きな過ちを経て、母への「ごめんなさい」「ありがとう」に到達。
6話でも、カセットテープを聴けたのは2度目の部室でしたね。
そうそう、ある意味では圭介にとっての和奏も「second」であり
だからこそ、彼女の身体を大変心配していたのでしょう。

今回は見落としがちな「two」を中心に。
・タイトル、2話完結、少年と少女(戦隊)、校舎(学科)

 前回の記事で触れた部分。
 男性部員がいる点は、やはり『TARI TARI』らしさとして最重要でしょう。
 人類最古の「2」と言ってもいいですからね、男と女は。混声合唱は美しい。

・記号(お約束)に留まらぬ描き方

 和奏の「断れない/断れる」について書いたように
 お約束としてパターン硬直化、記号化しそうなものには
 おそらく意識的に、正反対からの別アプローチがなされています。
 以前から『TARI TARI』のそういった作劇を「スカしの作劇」と呼んでいたのですが、
 それも全て「2」への意識からくると考えると、しっくりきます。
 その象徴と言えるのが、5話と6話の紗羽・来夏。
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 5話は紗羽が来夏を睨み、6話は来夏が紗羽を睨む。
 紗羽は基本的に、来夏より上位。掌の上で転がし、見守る存在です。
 けれど、それも100%固定の関係性ではないからこそ、
 キャラクターの多層的な魅力となるのではないでしょうか?
 4話での、来夏が紗羽のお尻叩きを見切る描きも同様。
 一方的に叩き、それを必ず喰らい続ける関係は
 お約束そして記号となり、カテゴライズされ、硬直化してしまいます。
 『TARI TARI』はこの「どちらも起こりえる」という、
 選択肢を2つ用意し、意識させる事で
 人物を、物語を豊かにしよう、というアプローチなのでしょう。

 例えば、1〜4話と形を変えながら続き、5話の和奏拒否によって途切れ、
 6話で来夏の水ドボンによって復活の予感が漂う?お風呂もそう。
 男が入るか女が入るか、また入浴シーン自体があるかないか…
 その揺れる意識自体が視聴モチベーションとなり、
 一度正反対のオチを描くからこそ、そうでないものに価値が生まれる。
 徹頭徹尾、『TARI TARI』が「2」の物語だという事が感じ取れます。
 
・ヤンとガンバレッド

 ウィーンがオーストリアから日本へと渡った事で
 取り残してしまったヤンは、ある面和奏に近い部分があります。
 だからウィーンは、ヤンを「絶対に1人にしない」為にガンバレッドを残したのでしょう。
 まひるにとっての歌が、ウィーンにとってのガンバレッドと言った所でしょうか。
 今は、ヤンの詳細とともに、紗羽父のソレがあるのかも気になっています。
 寺という「場」は跡を継がないと引き継がせられないから、
 「1人にしない為に」残せないから。
 だから彼は跡継ぎにと、そしてお金にと五月蝿いのかもしれませんね。

・流鏑馬

 紗羽は弓道部と合唱部を掛け持ちしています。
 彼女の騎手志望に対する疑問符は、前の記事で触れましたから
 今回細かくは置いておきますが、
 しかし彼女が一途に騎手を志すほどに、
 やはり弓道や合唱をやっている場合ではないし、そもそも高校よりも
 騎手学校を…という話にはなってしまいますよね。
 そのあたりへは、前回の記事だと「踏み込むのかな?」
 程度のこわごわした気持ちだったのですが、
 既に作品は、5話6話を経てしまったので…
 ある程度は描いてくるだろうな、くらいの意見に変更しています。
 もう、この作品は厳しい断念から目を逸らしたまま
 優しさを謳うような所には、留まっていません。
 いずれにせよ、紗羽が挑戦するという流鏑馬は
 乗馬と弓道、2つの要素を併せ持ってこその競技で、
 典型的に紗羽の「2」を明らかにしています。

・6話の「それぞれの救い方」

 皆から和奏は元気を、雪解けを、気分転換を、様々な力を得ていく。
 けれど、そのアプローチはバラバラ。
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来夏は正面から「果たされなかった約束」についての私見を述べ、
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紗羽は和奏の言葉からある程度の事情を察しつつ、
敢えて乗馬に集中させ、息抜き且つ一直線に思い悩まないよう気遣い。
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そして男性陣は、天然によって結果的に心からの笑顔を取り戻させる(笑)。

 どれか1つが正解という描きではなく、
 それぞれがそれぞれのポジションから接し、和奏の力になる。
 男性陣はツーマンセルで1単位にされているようですが、
 ここの描きは「和奏ともう1人」の2人によって展開し、
 それが様々な組み合わせで積み重ねられる事で成立しています。
 部員たちだけでなく、先生、そして圭介…
 先程書いた、特定の2に縋らない『TARI TARI』らしい描きです。
 2×2(3.4.5)…だから『TARI TARI』の2は、世界に手が届く数字なのです。

・まひるの遺影

 遺影でイエーイ。ダジャレこそが典型的な「2」!
 …勿論ただのダジャレではありません。
 娘と最後に作り遺す曲に、哀しい意味合いだけを込めまいとしたように。
 彼女の遺影もまた、彼女の死という哀しいものに対し
 少しでも楽しさや明るさという「もう一つの意味」を加えたい、という
 まひるの遺志が、或いはそれを汲み取った圭介の意志が反映されています。

・佐藤梨香脚本(おまけ)

 5話6話の脚本には、監督の橋本昌和さんと一緒に
 佐藤梨香さんがクレジットされています。
 佐藤さん、P.A.WORKSのアニメーターで
 (true tearsで動画検査とかされてたなぁ…)
 2〜3年前あたりから、名前をお見かけする事がなく、
 今回脚本というポジションで突然名前を拝見し、びっくりしました。
 (産休だったり育児休暇だったり?…ただの邪推です)
 母娘の物語を描く際、女性の視点を必要としたのでしょうか?
 しかしそれよりここで指摘したいのは、佐藤さんの名前によって、
 橋本監督の「監督自身による完全1人脚本」が途切れている事です。
 同時に、脚本に「男と女の2視点」が注入されている。
 作品の豊かさの為に、1を貫くよりも2を選ぶ…こんな所まで『TARI TARI』です。

細かい事を言い出すと、まひるが和奏に発声を教えた時の
窓の外にかかった二枚のシーツであるとか←本当に細かい
沢山あるので是非意識してみて下さい。
個人的には『コメットさん☆』『エルフェンリート』の頃から
「鎌倉」という街を、場の力学として
「陰陽の二面性を持つ街」として捉えていたので
(10年前の、神戸守さんと桶谷顕さんの対談から…)
『TARI TARI』がそこを舞台とする事にも必然を感じます。

「2」に満たされ。「1」に陥りかけた和奏を
ぐっと引っ張りあげた『TARI TARI』世界。
なら、その「たり」作品の最終関門、
「極めつけの1」が教頭なのでは?というのは、
最初の記事から未だ変わらぬ読みです。

※校長先生は「1」を避ける為にも
 2話のスイカ畑婦人が奥様?と考えていたりします(笑)。

OPの教頭は、物語の進むベクトルと真逆に
まひると踊る「2人」から「1人」の今へと移行しています。
普通科の来夏を軽んじ、発表会に音楽科で臨もうとした姿勢、
廃部の際も個別の情状酌量などなく、生徒手帳記載のルールに厳格な姿勢。
「合唱時々バドミントン部」という複合的な届けに対する無慈悲な反応。
頑固さも含め、教頭先生は「1」の塊と言って良いでしょう。
だから、2話の合唱部の順序を変えるという行為が「不本意」なのでしょう。
おそらく、現時点で彼女が「1」を曲げたのは
その時と、来夏への「心の旋律」スコア返却。
ともに何が関わってかは明らかですね、

和奏が13話の折り返しで皆に救われたように、
今度は和奏を含めた皆による
教頭への救済、引っ張り上げる事が、物語後半の柱…?
そうやって物語の中での教頭の役割を考えた時、
気になるのは「歌詞」「ピアノ」。

「心の旋律」の作詞は誰なのでしょう?
まひるは作曲畑の人に思えます。
更に「心の旋律」のピアノ演奏は誰なのでしょう?
6話のカセット再生時、まひるの歌声は聞こえるのに
ともに居る筈の、教頭の歌は聞こえてきません。
カセットテープは録音で例外、普段はまひるという可能性もありますが、
教頭がピアノと作詞、どちらか或いは両方の担当だったのでは?
といった読みも生まれてきます。
そして「心の旋律」への問いは、
いつか和奏が作り上げるであろう、まひるとの共作曲にもかかります。
その曲が完成したとして、歌詞は誰が作るのでしょうね?
教頭直々なのか、或いは今回は仲間達の誰かが作り上げ、
それを教頭が聞く側に回るのか、それともピアノか…

そして、いつか彼女が描かれる時、
和奏の受験時、対面にいた教頭の表情や心中が、
アバンで描かれる事もあるかもしれません。
それもまた「2」…同じ出来事の、2つの面から眺めた描き。
まひるのプロポーズや圭介の和奏初対面時の言葉とともに、
1つの事実の2つの面からの描きとして、期待したい部分です。

こんな淡さを積み重ねた、編み物のような構造で
複合的だからこその強さを目指す、そして実際に
強さが積み(編み)上がる物語はそうは生まれません。
僕自身もこの作品への敬意から、断言するつもりはなく、
あくまでいち視点という前提をもって書いてきたつもりですが、

『TARI TARI』が素晴らしい物語だ!という事だけは
この作品における、揺らがない「1」なのかもしれません。
…とか、落としてみたり。

http://twitter.com/rui178 まさか『true tears』に別アプローチで伍してくるとは思わなかったり、
http://twilog.org/rui178 実は記事のタイトルもダジャレというか、かけていたり。

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