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zoom RSS トラバ記事for『くがつ。』その2〜紀元前1万年〜

<<   作成日時 : 2009/09/06 09:12   >>

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ブログにあるとおり、
わう*アニHOTレビューなる番組にゲスト出演。
異様にテンションが高かったのは、
必死に言葉にしようとしていた通り。
纏めれば
「普段から、日常のツールとして接していた
WOWOWと、自分が繋がるとは思ってもみなかった」。
視界の先にある事は目標・夢と言えても
まるで予想だにしない所から
降って沸いてきたものは、イメージしようがなく
単純な驚きと喜びが大きかったのでしょう。
縁を重んじる彼女らしい部分とも。
あと、月曜日、台風などというキーワードからも
収録が8月31日だったようですから
イベント翌日、熱が残っていたかな?
とにかく終始嬉々としていたのが印象的でした。
ゲストで参加する時は、母体である番組なりに敬意を表する。
対象がラジオであれアニメであれ、その重要さに大差はないはず。
少なくとも僕は、そういう姿勢が好きです。

基本的に作品トーク超上等!という考えなので
色々興味深い話が聞け、満足。
特に、吹き替えの役に対するスタンスの話。
アニメと違い、あらかじめ役者が命を吹き込んでいる「役」というものに
どういうスタンスで臨んでいるのだろう?
というのは気になっていたのです。
今回の受け答えで、役者というものを尊重するスタンスが伺えました。
アニメのキャラだと、ゼロからアニメのキャラクターを見つめ
「彼女」を尊重するスタンスをとるけれど
吹き替えの場合は予め役者が役作りをした役がそこにあり
自分はそれを日本語で表現する、伝達者としての役割が主なので
役者の呼吸や間を意識して、その伝達を心がける…
吹き替えによって全く別の魅力を与えてしまう、
というやり方もある中で
これまでの彼女の役へのスタンスからすると、いたって自然な
不器用で真面目なアプローチ。
相変わらず「高垣彩陽としての筋が通って」いました。

と。このラジオに出演されたのは
WOWOWで放送される『紀元前1万年』のエバレット役として。
『紀元前1万年』は、
高垣彩陽さんがヒロインとして出演しているらしいよ!
と。
知った瞬間超高速でポチったので、普通に所持はしているのですが
1年以上?積みっぱなしとなっておりました。
でも、話題にされていたのでこれを機にするのもよかろう、と。
先ほど、『バトルスピリッツ少年突破バシン』の最終回が始まるまでに
徹夜で鑑賞いたしました。
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…結構トンデモ映画でした(笑)。

僕も、基本的に
作品評価では嘘のつけない人間なので、結構素直に書きます。
ただし、一方的にこきおろすスタンスも気に食わないので
それもしない。

タイトル自体がおおいにハッタリじみた作品です。
「紀元前1万年前、人はどうあったか?」という
CG技術によって太古の生活を再現!なニュアンスかと思いきや
色んな「過去」をドッキングさせた、テーマパークのような
不思議な箱庭紀元前が登場。
おそらく製作者にとって、このタイトルに掴み以外の目的はなく
或いは「大昔」の言い換えに過ぎないですね。
こういうとき、サッサと「考証」からアタマを切り離すのが
真の知恵者というものだと思います。
そこで勝負しようとしてたら、間違っても
こんな造りにしないと、わかってあげましょう。

彩陽さんは持ち前の善性で「歴史になっていない過去は想像するしか」
みたいな素敵な事を仰ってましたが
いやー、マンモス狩猟から農耕民族に移行する過程で
バビロン捕囚で雪山→密林→砂漠→ピラミッドで
北斗の拳救世主伝説、というのは
過去を想像するというより、もうド直球でファンタジーです(笑)。
西洋史観によって彩られつつ諸要素をつまみぐい。
ある意味これこそ、紀元前の

「イッツアスモールワールド」やー。(棒読み)

この辺を突っ込んで「駄作」で終わらせてしまう手もありましょうが
それは、僕がゲームオタク時代に嫌いだった
「クソゲーと呼びたがる人々」と大差がない。

ダメな所を見つけました。

で?それで?

という、その先を読み取る事を放棄して
ただツッコミ易い部分だけで鬼の首を取ったかのように
大喜びで揚げ足をとる、というスタンスは好まない。
なので、一応作品として眺めると
英雄譚、ですね。簡単には。
以降、ツッコミできる部分はハズして結構マトモに作品説明。

つまり「宇宙戦争」のトム・クルーズといいますか(笑)
↑あ、ちょっとツッコミっぽくなっちゃった
ヘタレが人種の壁を越えて英雄となる、という
ホワイト・ヒーローの物語です。
とにかく人種・民族の壁を越える、という所に
意識が集まっていると思うのですが、それが
「エメリッヒ的なもの」なのかどうかは、
僕の観たサンプルが少なすぎて語れません。
「アメリカで生活する非アメリカ人」として持つ
人種のるつぼとしてのアメリカへの敬意・感謝と同時に
白人ありきの史観へのまなざし…とか
ありがちなことは、言葉にはできるけど
自分の中で、実感レベルにまでは落ちてこないので
(やっぱりサンプル少ないから)。
とりあえず、この作品はそんな
「民族を束ねる勇者」を語っています。

ヤガル族の男・デレーは冒頭で
単独マンモス殺しの称号を得る。
けれどそれは「手が網に引っかかっちゃった」という
エラく間抜けな事をきっかけとした、偶然の産物に過ぎない。
彼は「英雄という立場に祭り上げられたヘタレ」
として基本語られます。
とにかくヒロイン・エバレット。
エバレットに意識を占有されすぎていて、周囲が見えていない。
そんな人物として描かれており
それゆえに、独断専行でエバレットをさらった連中に仕掛け
皆を窮地に追い込んだりもしています。

一応これには、デレーなりの理由があるようで
父親が集落を抜けた、という負い目、トラウマが存在する事から
その事への恨み、反発心から
自分が集落を抜けるという選択肢は持たないものの
(一種の父親へのあてつけですね)
一方で、そのコミュニティに所属しているという真の実感が希薄。
だからこそ愛する女性、という唯一のものに実感を見出し
そこに傾注していた。
…と、いう事なのでしょう(勝手に読み込み)。

そこから、英雄という立場を与えられ、実感が追いついていく
…というプロットですね。
作中で屈指にかっこいい人物って、黒人部族側の通訳父ちゃんと
ヤガル族の英雄が持つ武器、白い槍を有していた
ティクティク、ぶっちゃけこの2人に尽きるんですが
ティクティクがデレーに言っていた

「責任あるものは…自分を中心に輪を描きその輪を守っていく」

という話が、つまりは英雄、あるいは
指導者の義務てもので。
ちなみにここ、字幕だと
「力ある者は…」
と、「責任」が「力」になっていて。
ここの言葉のセレクトは、翻訳側、台本側
それぞれにそれぞれのこだわりがあったろうと類推します。
まぁ、責任あるものは義務がある、という表現の方が
作品には沿っているのではないでしょうか。
だって、デレーはあらかじめ力があったわけじゃないですからね。
気付いたら重要なポジションにおさまっちゃった、
僕なんかエヴァ乗れちゃった、みたいなもので。
その点、日本語吹き替えの人が良い仕事をしたのでしょう。

あとは、そうやって
民族の幅を超えて心を1つにする、という
ティクティクの遺志も受け継いだ
英雄になっていく過程で
(ティクティクの冒頭台詞を引用する継承演出は素直に良い)
いくつかポイントとなる描写があったでしょうか。

例えば、武装集団・ポタ族が仲間になるシーンで
デレーが子供だ、と言われたことに対し
「俺は童顔なんだ」と、若干サムいジョークで返すシーン(笑)。
ここはそのネタの面白いつまらないは置いておいて
ポタ族は笑わない
→彼らにとっての笑顔=全員で地面うちつけリズムとる
という、コミュニケーション手段を統一させていない所に
意図を見出しましょう。
結局最後まで、デレーが
通訳なしで黒人たちと言葉を交わせない事も含め。
肌の色、言語、習慣の違い、といったものをアピールした上で
心を束ねる英雄、という所に意味を持たせたかったのでしょう。

そこが最終盤の、ピラミッドを統べる
自称「神」とのやり取り

エバレットを離せ!

ヤガル族は赦してやるから、ヤガル族とエバレット連れて
おまいらピラミッドからでてけゴルァ!

という(意訳)、これまたわかりやすい会話に着地しております。

デレーは愛する女、エバレットを救いたい。
それは作品が始まってから終わるまで、ずっと同じです。
けれど、デレー→エバレットという感情は
最も狭い、対人の情というミクロな範囲でしかなく
旅の中で、民族を束ねる英雄としての義務に目覚めた
(と、描写したいはずの)
デレーにとっては、もっと大きい
マクロな単位が見えているんですね。
だから、単純にここで
ハイでは引き下がります、という話にはならない。
「他のものたちはどうなる?」という問いかけをするし
それ以外は奴隷だ、という答えに対して
「違う」「そうじゃない」
という答えが出てくる。
つまり、神の前で最初に切った啖呵
「だが仲間は連れて帰る!
1人残らず連れて帰る!」
の“仲間”という単位は
自分の所属しているヤガル族だけを指してはおらず
既に言葉も通じない肌の色も違う連中も括っているんだよ、と。
そこに「英雄」を見せたかったのだろう、という事ですね。

だから、ここでエバレットの安全を最優先に
とりあえずヤガル族とエバレットだけで引き下がる…という選択をせず
八つ裂きの準備万端なエバレットをそのままに
「神」に向かって槍を投げつけた時点で、彼は
「英雄としての選択」をしてしまっているので…
この先、エバレットが死んでしまうのもまぁやむなしというか。
そういう二者択一の選択をしたわけですから。

でも。
一方で、英雄としての義務を果たしてしてみせた男に対し
愛する女を喪う、ってオチを与える物語ってどーよ?
という物語倫理(エンターテイメント・マナー)があったのかどうか。
ラストのラストで、巫母のバア様が
どうやらメガザルを唱えて(笑)
自らの命と引き換えに、エバレットを生き返らせたみたいですねぇ…。

ま、そこはエンターテイメントとしての選択の話に過ぎないので
正直言って
エバレットが死んだままであろうが
エバレットが生き返ろうが
あんまり重要ではないです。
こういう顛末の部分だけ気にする方って結構いますが、そこじゃない。
この場合、公人、ちゅか民族統合英雄としての立場を全うしようとして
ミクロに拘泥しなかったから、エバレットはピンチになりました、と。
その展開さえ描いてしまえば、その先がどっちに転がろうと
大した問題ではないのです。それは別の、作品の温度選択の話。

と、いう事で。かなり良心的に読み込んだ気もしますが(笑)
それなりに観られました。

また、↑は全部建前にすぎず(おい!)
結局高垣彩陽さんの声だけにひたすら注目していて
正直内容とか気にしてないのですが
※今まで書いたのは何だったのさ(笑)

子供時代のデレーとの会話で
デレーが、エバレットを北極星に例えたところで、
デレーが「忘れない。絶対」などと言ったあとの
少女エバレットアップシーン
「フ…」が良かったです。いや、音にするとニュアンス出ないんですが
微笑、というものに対して
声を充てる側としては、もうちょっと細工したくなるようなシーンだろうに
本当に「嬉しそうな息」だけで表現しているところが、良かったですね。
達者な人ほど、あそこにちょっと自分の声をのせて
それこそ「ふっ…」ってやりたくなったしまうのではないかなぁ。
画面が少女エバレットのアップで、いい表情をしているだけに
あまりすぎた脚色はいらない、という判断をされたのだとしたら
ナイスです。
また、ラストシーンのデレー&エバレットを迎える
「無事だったんだね!」by少年

うーん、俺のあやひーセンサーが反応したから
このモブはあやひーだな(`・ω・´)

本当に作品内容はあんまり気にしていなかったらしい。
いや、声ばっかり注目してました(笑)
デレー役の東地さんは、意識的にかセンテンスで区切る喋り方で
あんまり人付き合いが良くない感じ、みたいなのを出していましたかね。
うーん、吹き替えは守備範囲じゃないんだが
気にしだすと、一本の映画観るだけで物凄く情報あって消耗するなぁ。

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